リノアは小径の奥に足を踏み入れた。湿った土が靴底に食い込み、冷たい朝霧が足元を這う。木々の間を抜けると、目の前に小さな空き地が開けた。そこにはシオンの痕跡が残されていた。地面に置かれた石の輪、その中心に残る焦げ跡……。 灰は風に散らされ、石の隙間にわずかに残るのみ。これは焚き火の跡だ。近くには折れた枝が無造作に転がっている。 シオンがここにいた。リノアは胸が締め付けられる思いをしながら、空き地に足を踏み入れた。「あれは何だろう?」 風に揺れるその一片にリノアの心がざわつく。リノアは急いで近づいて、震える手で紙片を拾い上げた。シオンの乱雑な文字……。《龍の涙》 リノアは眉を寄せ、紙片をじっと見つめた。これは村の儀式で使われる種子の名だ。 龍の涙について母が語ったことがある。暖炉の前で、母は目を輝かせて言った。「リノア、龍の涙は神秘的な力を宿しているんだよ。癒しもすれば、壊すこともできる」 母の声が、今も耳に鮮明に残る。 リノアは紙片を握り、霧が漂う空き地を見回した。すると、空き地の端、木の根元に引っかかった布切れが目に入った。 リノアの息が止まる。あれはシオンがいつも首に巻いていた青いスカーフだ。 そのスカーフが赤黒い染みで覆われている。血ではないか。 震える手でスカーフを手に取ると、乾いて硬くなった染みが指先に冷たくざらついた感触を残した。 シオンの死は落石による事故だと聞かされている。村人たちがそう説明し、エレナも「詳しいことはわからない」と首を振っていた。だが、この血は何だろう? 本当に落石で亡くなったのだろうか? リノアはスカーフを握り、目を凝らした。青い布に染み込んだ赤黒い痕が、シオンの笑顔と重なる。 笛を彫りながら笑った日、一緒に森で薬草を探した日──あの穏やかな記憶が、目の前の血の染みとあまりにも対照的で、胸が苦しくなる。すべてが遠い過去になりつつある中で、このスカーフだけが現実を突きつけてくる。 どれだけ無念だったことだろう。一人寂しく散ったシオンのことを思うと息が苦しくなる。 本当に事故だったのだろうか? 周囲の人たちの反応、残された紙片。それらを踏まえると、ここで何かが起きたと見るのが自然ではないか。 この血が示すものは、村人たちが語る単純な死では説明できない何かのような気がする。 シオンの最期に何があっ
石の輪の中で灰が舞い上がり、まるで生き物のように渦を巻く。風に乗った灰が朝陽に照らされてキラキラと輝いている。 リノアは目を細め、その不思議な動きを見つめた。すると、風が地面を撫でるように吹き抜け、石の輪の近くで苔に覆われた土がわずかに崩れた。 まるで呼び起こされたように姿を現した一つの小さな木箱…… やがて風が止み、森が再び静寂に包まれた。霧が晴れ、朝陽が再び大地を照らしていく。 木箱の表面は粗く削られ、角が少し欠けている。素朴で無骨な作りをした木箱だ。 リノアは木箱にゆっくりと近づき、木箱を見下ろした。これはシオンの手作りで間違いない。箱の表面に小さな渦巻き模様が刻まれている。 シオンがこれを手に持って笑う姿が頭に浮かぶ。──この木箱が、ここにあるということは……。何者かの手に渡らないようにシオンが木箱を隠したことを意味するのではないか。 箱の蓋には小さな留め金があり、中に何か入っている感触がある。「シオン……開けるよ」 そう言って震える手で木箱を開けた時、朝陽が木々の隙間から差し込み、リノアの周辺を淡く照らした。 足元に小さな水たまりがある。朝露や霧の水分が地面のくぼみに集まったその水面が、まるで水鏡のように揺れている。リノアのスカーフを握る手が映り込み、血の染みが赤黒い影となって揺らめく。 リノアが水面を見つめた瞬間、水鏡が歪み、血の影が渦を巻くように動いた。その中心に映し出されたのは、笛を手に森を見上げるシオンの姿……。「シオン……」 リノアの胸に不思議な感覚が走る。シオンが教えてくれた力──自然の兆しを感じ取る星詠みの力だ。星は見えずとも、朝陽や風、そしてこの水鏡がシオンの意図を映し出している。 木箱の出現は偶然ではない。 水鏡に浮かんだシオンの姿が私に囁いたのだ──「龍の涙を守れ」と。 リノアは木箱の中をそっと覗き込んだ。折り畳まれた紙と、小さな種子が静かに横たわっている。 村の儀式で使われる種子と同じ形──しかし、どこか異質に見える。表面が光を薄く放ち、指で触れると微かな熱が伝わってくる。 リノアはそれを手のひらに載せて、じっと見つめた。 種子は小さく、掌に収まるほどだが、ずっしりとした重みが感じられる。まるで生きているかのように微かに脈動している。 これはただの種子ではない。生命の鼓動、自然の力が宿った
リノアは木箱の底に横たわっていた紙片を広げ、シオンの掠れた字に目を凝らした。乱雑な字がびっしりと並んでいる。インクが滲み、震えるような筆跡がシオンの焦りを伺わせる。 リノアは貪るように、その一行一行に目を走らせた。『龍の涙は自然の均衡を保つ力を持つ。大地の深みで脈を打ち、水の鏡に映り、風の囁きに乗る。木の根に刻まれた命のしるしだ。村の儀式はその力を引き出すためのもの――だが、それは半分しか真実を告げていない。使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか。守れ、リノア。星が沈む前に』 文章はそこで途絶え、紙の端はまるで燃え尽きたように黒ずんでいた。 リノアは自分の名が紙に書かれていたことに驚きを隠しきれなかった。シオンは私が木箱を手にすることを予見していたのだろうか……。 そう言えば、シオンがよく口にしていた言葉があった。──自然は求める心に寄り添う── 水鏡に浮かんだシオンの姿が私に囁いている──「龍の涙を守れ」と。 紙を持つ手が震え、リノアの目から涙がこぼれ落ちた。リノアの涙が紙に落ち、小さな染みを作っていく。「シオン、一人で抱え込んでいたんだね。もっと私がしっかりしていたら……」 リノアは紙を胸に抱き、地面に崩れ落ちた。 シオンは種子の力を知り、一人で守ろうとしたのだ。そして、それがシオンの命を奪うことになった。 誰かがこれを奪い取ろうとしている。一体、何の為に……。 龍の涙に秘められた未知の力──それがシオンが追い求めていたもの。 途切れた言葉の先には一体、何が書いてあったのか。リノアは種子と紙を握り締め、霧の奥を見据えた。 シオンは一人、霧深い森の奥で何かに立ち向かった。死の間際、叫び声を上げたのか、それとも静かに運命を受け入れたのか。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。 リノアはシオンの紙をもう一度見つめた。 やはり、その先には何も書かれてはいない。空白がシオンの沈黙を映しているかのように。しかし文字はなくても、龍の涙の鼓動が私に囁いている。シオンが命を賭けた理由が、ここにあると。 シオンの遺志は自然と共にある。村を守るため、龍の涙の秘密を隠すため、彼は命を賭けたのだ。「シオン……龍の涙って何なの? 私にどうして欲しいの?」 リノアは空を見上げ、朝陽が雲の隙間から差し込む光に目を細めた。リノアの呟きが霧に溶
リノアは木箱とスカーフを手に空き地を後にした。木々の隙間から漏れる夕陽が木箱に淡い光を投げかけ、表面に刻まれた細かな模様を浮かび上がらせる。それはまるで誰かが忘れ去った秘密の鍵のように見えた。 森の小径を戻る足取りは重く、頭の中はシオンの言葉でいっぱいだった。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか」 昨日、薬草採取で森を歩いたときの異変……。森の水が減り、草が乾いて萎れていた。あの不自然な静けさ──鳥のさえずりさえ途絶え、森が息を潜めているようだった。シオンの文字に込められていた焦りは、そこから来ているのかもしれない。 幼い日に母が姿を消し、そして今、シオンが亡くなった。私はついに天涯孤独の身となってしまった。 森の奥で母が私に微笑みかけた、あの優しい笑顔。そして木漏れ陽の中、手を差し伸べてくれた温もりが今も胸の奥に焼きついている。母の声が遠くから聞こえるようだ。「リノア、大丈夫だよ」と。 シオンはいつも森で動植物を観察していた。陽が沈むまで土に触れ、葉の形をなぞりながら静かに微笑み、一つ一つ丁寧にスケッチを描いていたシオン。 村のために何かをしようと夜遅くまで灯りの下で目を輝かせていた。疲れも見せずにノートに想いを刻んでいたあの姿が思い起こされる。「シオン……。何が起こってるの?」 自然の異変とリノアの断片的な記憶が糸を手繰るように絡み合う。リノアの呟きは風に攫われ、森の奥へと消えた。 シオンの意図は、まだ掴めない。だが、この種子がただの物ではないことだけは確かだ。 私にはシオンほどの知識はない。それでも、私にも何かできることがあるのではないか。シオンが遺した言葉。そして龍の涙──それらに込められた想いを解き明かさなければならない。 夕陽が木々を血のように赤く染め、霧が徐々に薄れていく。葉の変色が一層目立ち、乾燥した草がその光景をさらに際立たせる。 やはり森は弱っている。 エレナに会おう。シオンの研究ノートを読めば、真相に辿り着く手がかりが見つかるかもしれない。 村の外れに近づく頃、夕陽が地平線に沈みかけ、茜色の光が森の輪郭を柔らかく縁取っていた。遠くで村の灯りが揺らめき、子供たちの笑い声が風に乗って届く。それは平和な響きだった。しかしリノアの胸には別の音が鳴り響いていた。
リノアは村の入り口に立ち、エレナの家へと向かった。 村の広場に差し掛かった時、鍛冶屋のカイルが炉を叩く音が響き、女たちが井戸端で洗濯物を干しているのが見えた。 普段ならリノアも挨拶を交わすところだが、今日は足早に通り過ぎた。頭の中はシオンのノートと龍の涙で埋め尽くされている。 エレナなら何か知っているはずだ。彼女はシオンの恋人であり、シオンの研究を手伝っていたのだから。 エレナの家に着いたリノアは扉を軽く叩いた。中から物音が聞こえ、エレナの声が返ってくる。 リノアは扉を開け、家の中へ入った。薬草の匂いが漂い、机の上にはシオンの研究資料やノート、乾燥した植物類が散らばっている。 エレナは薬草をすり潰しながらこちらを見た。「リノア、森はどうだった?」 エレナの落ち着き払った声を聞き、リノアは一瞬、戸惑い目を伏せた。だが、すぐに籠を床に置き、木箱とスカーフを取り出した。「エレナ、これを見て。シオンのものだよ」 エレナの手が止まり、彼女は立ち上がってリノアに近づいた。スカーフの血の染みを見た瞬間、エレナの目が鋭くなった。「血? どこで拾ったの?」「森の北側。シオンの焚き火跡があったの。そこに木箱もあって、中にこれが入ってた」 リノアは種子を差し出した。エレナはそれを手に取り、目を細めて観察した。「これ、儀式の種子と違うものだね。熱いし、光ってる。シオンが言ってたのは、これのことだったのか……」「シオンが何て言ってたの?」 リノアの声色が鋭く変わった。 エレナは種子を机に置き、目を閉じて黙り込んだ。彼女の手が微かに震えている。シオンの記憶が蘇ったのだろう。エレナの心情を察して待っていると、やがてエレナの唇が小さく動いた。「彼は『龍の涙』に何か隠された力があるのではないかと疑ってた。私には詳しく教えてくれなかったけど、とにかく危険だって警告してた」「うん。それは、この紙にも書いてあった。『誤れば破壊を招く』って。シオンはこれを守ろうとして亡くなったんじゃないかな」 リノアはそう言って、紙をエレナに手渡した。 エレナは紙をそっと受け取り、その上に刻まれたシオンの掠れた文字に目を落とした。 その瞬間、エレナの表情が硬直し、沈黙がその場を包んだ。紙を握る指先に微かな力がこもり、心の奥底で何かが揺れ動いているようだった。 部屋の中を満た
リノアはエレナの顔を見つめ、彼女が何か重要なことを知っているのではないかと感じた。シオンの死を悼むだけではない、何か深い確信がエレナの瞳の奥に隠れているように見えたのだ。 エレナは目を伏せ、静かに頷いた。「そうね。私も龍の涙を守ろうとして亡くなったんだと思う。事故にしては不自然だったし。シオンの身体は見つかったけど、落石の跡が少なくて……。誰かが証拠を隠滅したのだと思う」 やはりそうだったのか。エレナも、シオンの死が誰かの手によるものだと疑っていたのだ。今までのエレナの素振りからは、その真意を感じ取ることはできなかった。事を荒げたくなかったのかもしれない。「龍の涙を手にしようとしている人たちって、エレナ、誰のことだか分かる?」 エレナは一度首を振り、考え込むような表情を見せたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。「最近、森の近くで怪しい影を見たっていう噂があった。カイルなら何か知っているかも。彼、外部の商人たちと取引することが多いから」「カイル……」 カイルの印象はあまり良くはない。カイルは自然保護や村の伝統を重んじるどころか、それらを軽んじるところがある。 村の外から持ち込まれる品々を仕入れるために、森の薬草や木材を惜しげもなく切り崩して利益に変えている。そのような姿を何度も目にしてきた。 シオンのように森を愛し、その声を聞こうとする気持ちなど、カイルは持ち合わせてはいない。 リノアの胸にカイルへの不信感が冷たく沈んだ。 それでも、怖がっているわけにはいかない。「私、シオンの遺志を継ぐと決めたの。自然を守るって」 リノアはエレナを見据えて言った。「シオンがリノアを信じていた理由が分かるよ。リノア、カイルに会うの?」 エレナは目を細め、静かに微笑んだ。 エレナの瞳の奥に宿る真剣さが、シオンの死を悼む悲しみと、リノアへの信頼を映し出している。リノアの胸の奥で何かが熱くなった。「リノア、気をつけてね。カイルはシオンの死に直接絡んでいないと思うけど、何らかの形で関わっている可能性ならあるから」 エレナは心配そうにリノアを見つめた。「私も協力するから心配しないで」 エレナの手がリノアの肩にそっと置かれる。その温もりがリノアの心に染み渡った。 リノアは慌てて目を瞬かせて、こぼれ落ちそうになった涙を誤魔化した。 一人で
リノアはエレナの家を出て村の広場へ向かった。夜が深まり、星が空に散らばっている。冷たい風がリノアの髪を揺らす。 静けさに包まれた村の広場が目の前に広がっている。鍛冶屋の炉から漏れる赤々とした光が闇を押し返し、金属を叩く鋭い音が響き渡る。火花が飛び散り、暗い夜空の下で命を持つかのように一瞬輝いた。 炉のそばで汗だくになりながら鉄を叩いているカイル。その腕には力が宿り、額には熱気が染み込んでいる。彼の動きには迷いがない。炉の炎が彼の輪郭を鮮やかに映し出していた。 リノアは足を止め、カイルの姿を見つめた。炉の熱気が顔に当たり、心臓が速く鼓動する。 カイルはただの鍛冶屋ではない。村の外部との交易を仕切る男であり、時にその取引に疑念を抱かせる存在でもあった。 リノアの胸にカイルに対する不信の影が忍び寄る。村の伝統や自然を軽視するカイルの姿はシオンの信念とは真逆のものだ。 それでも真実を追う決意がリノアの背中を押す。カイルと向き合わなければならない。たとえそれが危険を伴うものだとしても。「カイル、今いい?」 リノアは鍛冶屋の入り口で声を掛けた。夜の闇に溶け込むようなその声に、鍛冶場の音が一瞬静まる。 カイルがゆっくりと顔を上げた。炉の赤い光が彼の顔を照らし、汗が額から滴り落ちている。重たそうな手を鉄槌から離し、その鋭い目がリノアをとらえた。「お前か、リノア。こんな時間に珍しいな。何か用か?」 カイルの声は穏やかだが、どこか探るような響きがあった。 リノアは一瞬、躊躇したが、リノアは籠から枯れた葉を取り出し、カイルに差し出した。「これ、森で見つけたの。最近、草が乾いてて、木も弱ってる。シオンの死と関係あるんじゃないかって思って」 リノアの声はかすかに震えていたが、その目には強い意思が宿っている。 カイルは葉を受け取り、指で軽く揉んで感触を確かめた。「確かに変だな。乾いて脆い。だが、シオンの死と何の関係があるんだ? あいつは落石で死んだって話だろ」 リノアは息をのみ、目を細めてカイルを見つめた。「本当にそう思う? シオンは自然のことを調べていた。誰かに邪魔されたんじゃないかな」 カイルは炉に視線を戻すと、無言のまま鉄を叩き始めた。平静を装っているが、リノアはカイルの目が一瞬、鋭くなったのを見逃さなかった。 金属を打つ音が暗い夜空に響き、火
「俺には関係ねえよ」 そう言い切るカイルの声は低く、わずかに硬さを帯びていた。「シオンは妙なことに首を突っ込んでたんだ。自然がどうとか、種子がどうとかな」 言葉を切り、炉を見つめるカイル。その炎の揺らぎにリノアの不信感が重なった。「確かにあいつが死ぬ前、森で誰かと会ってたって話は聞いたよ」「誰と? 何をしてたの?」 問い詰めるリノアの声にカイルは目を細め、短く首を振った。「森の奥で何かを企んでる奴らだ」 カイルはそう口にすると、視線を外し、再び火をかき混ぜ始めた。「シオンが何か渡したか、奪われたか、俺は詳しくは知らねぇ」 リノアの胸に冷たく鋭いものが突き刺さる。しかし彼女は更に一歩踏み込んだ。「狙っているものって、『龍の涙』じゃない?」 その名を口にした瞬間、カイルの目が驚きの色に揺れた。炉の火をかき混ぜる手に力が込められ、硬く握りしめられた鉄棒が微かに軋む音を立てた。 飛び散る火花が暗闇を切り裂き、一瞬だけリノアの顔を浮かび上がらせた。 その沈黙は重く、鋭利な刃物のように二人の間に降り立ち、言葉以上に深い意味を宿した。「お前、何を言ってるんだ? 『龍の涙』って儀式に使われる種子だろ。あんなものが何だって言うんだ? そんな大層なもんじゃねえだろ」 カイルはため息をつき、炉の近くで金槌を手に取り、その柄を握りしめた。カイルの指が強く食い込み、木の柄がわずかに軋む音を立てた。 カイルがリノアを冷たい目で見つめる。 リノアはさらに問いただそうとしたが、カイルが先に口を開いた。「シオンがそれに絡んだなら、自業自得だろ」「自業自得じゃない! シオンは村を守ろうとしたんだよ!」 リノアの声が鋭く響き渡る。 カイルは目を伏せ、金槌を静かに炉の横に置き、落ち着き払った声で言った。「お前、深入りすんなよ。シオンみたいになりたくなければな」 その言葉にリノアは息を呑んだ。カイルの目は冷たく、警告の色が濃い。リノアは枯れた葉を籠に戻し、後ずさった。「ありがとう、カイル。気をつけるよ」 リノアは短く答え、鍛冶屋を後にした。夜風が鋭く吹き抜け、彼女の髪を揺らす。暗い空に散らばる星々が、どこか遠くから静かに見守っているようだった。 村の灯りが遠くに見える頃、リノアは足を止め、森の方向を見た。木々が黒い影となって揺れ、風がざわめいている。 冷
リノアはエレナと並んで歩きながら、小道の石を踏みしめた。 風がリノアたちの背中を押すように吹き、遠くの木々がゆるやかに揺れている。 リノアは足を止め、オルゴニアの樹をじっと見つめた。 かつては豊かな緑に包まれていたこの地も、今では霧の密度にむらが生じている。霧が濃く立ち込める場所もあれば、そうではない場所もあり、その差がはっきりしてきている。 樹々が枯れて風が抜けやすくなったことが、霧が薄くなった原因ではないかと思う。 地面が露わになった場所もある。大地の水分が減ったのかもしれない、足元の土はかつての湿り気を失い、踏みしめると細かく崩れていく。 かつては豊かな緑に包まれていたこの地は、今ではその面影を失いつつあり、草木は力なく揺れ、根を張ることすらままならない。湿り気を好む苔もキノコ類も姿を消しつつあった。 霧が立ち込める場所はまだ残ってはいるものの、その範囲は年々縮小している。 ゆっくりと、しかし確実に──この大地は姿を変えているのだ。 リノアは膝をつき、鉱石によって枯死した草木に手を添えた。──硬質化している…… 指先にざらつく感触。これは通常の乾き方ではない。石を思わせる異常な固さだ。 昨夜、見た時は、ただ草木の生命が奪われただけだと思っていた。しかし、この枯れ方は……。 何かがこの土地そのものに強制的な変化を与えている。 リノアは周囲を見渡した。 月明かりでは気づかなかった痕跡──草木や土、そして岩肌に至るまで色がかすかに変わっている。 淡く光を帯びた痕…… 鉱石は水晶に似た結晶だった。その成分が地面や草木に染み込んでいるということなのだろうか。「エレナ……これ、ただ枯れたんじゃないよね」 リノアの声がわずかに震えている。 エレナは眉をひそめ、慎重に足元の土を掬い上げた。 肌には直接触れぬように……。それは本能的な警戒から来るものだった。 乾ききっているはずの土が妙な粘性を持って指に絡みつく。「鉱石の力って、魔法のような人知を越えたものなのかと思っていたけど……」 エレナは手のひらをじっと見つめた。「これは何を原動力にしているんだろう……」 意図なき変化なのか、それとも何者かの意思が込められたものなのか。 リノアの背筋に、薄く冷たい感覚が走った。 この影響が広がれば森全体が──いや、もっと広範囲に
朝日が研究所を淡く照らし、柔らかな光がペンダントに反射する。 リノアはペンダントを握りしめ、ヴェールライトのぬくもりを感じ取った。 いよいよ水の都・アークセリアへの旅立ちだ。「トラン。頼んだよ」 リノアは昨晩、したためた手紙をトランに手渡した。 それは親友のアリシア、幼馴染のアリス、そして村長のクラウディア宛のものだ。 村へ戻らず、直接アークセリアへ向かうこと。そして旅の目的が書いてある。 トランには、その三人以外には詳細を避けるように言ってある。それは信用のおける人だけにしか伝えない方が良いと判断したからだ。特にカイルは避けたい。 カイルが何を考えているのか掴みきれない以上、カイルに情報を与えるのはリスクを伴う。 こちらが何をしようとしているのか、カイルに知らせてしまえば、どんな波紋を生み出すか分からない。 たとえ村内の者であっても、慎重に接するべきだ。 リノアは息を整えて、視線をアークセリアの方角へ向けた。旅立ちの空気が満ち、背中を押すように朝の風が吹き抜けていく。「必ず戻って来てね。約束だよ!」 トランの声が澄んだ空に響く。 リノアはトランの笑顔を見つめた。 いつものようにトランは明るく振る舞っている。けれど、その瞳の奥には揺れるものがあった。 本当は一緒に旅立ちたいのだ。 トランは知っている。 自分がまだ幼く、この旅に付いて行くことができないことを。 戦う力も、危険を乗り越える術も持たないことを。 だからこそ、ただ笑顔を浮かべ、強がるしかないのだ。 リノアは、ふと目を伏せた。 トランの気持ちが痛いほど分かる。「いつか……」 その言葉の続きを飲み込み、リノアは迷いを断ち切るように顔を上げた。「トランも元気でね!」 晴れ渡る空に声を響かせ、リノアとエレナは力いっぱい手を振った。 トランも笑顔で応えたが、その指先はほんの少し震えている。 本当はトランのように、私だって不安なのだ。 この先、何が待ち構えているのか分からない。 アークセリアへの旅路に、どれほどの困難が潜んでいるのか……。 それでも、立ち止まるわけにはいかない。 私は選んだのだ――進むことを。 だからこそ、後ろを振り返らず、歩みを続けなければならない。 遠ざかっていくシオンの研究所、そして、小さくなっていくトランの姿…… トランの
「それにしても、シオンがこんな研究をしていたなんて……」 エレナは息を吐き、その思いを噛みしめるように言葉を続けた。「私たちに知らせなかったのは、危険な思いをさせたくなかったからだろうね。でも、私、頼って欲しかったな……」 シオンの孤独な探求に思いを馳せるたび、胸の奥にかすかな痛みが広がる。 エレナはふと視線を落とした。 その横顔には、どこか寂しげな表情が垣間見える。「森の均衡を壊そうとする者たちがいるのなら、私たちもただ見ているわけにはいかない」 エレナの言葉は力強く、揺るぎない意志を感じさせる。 グリモナのグレタ、街の者たち──それぞれが暗躍し、何かを求めている。 リノアは夜の静寂に目を向けた。──簡単にはいかないのかもしれない。だけど、これはやらなければならないことだ。シオンのためにも、自分自身のためにも。 月の光が窓辺に揺らめき、影を伸ばしている。 その影は、これから進むべき道の形をぼんやりと描いているようだった。 リノアは視線をエレナへ戻した。「エレナ、アークセリアへ行こう」 水の都――星詠みの力を知る場所。──迷っている時間はない。「そうね、明日にでも旅立ちましょう」 エレナは迷いのない声で答えた。 夜風が書斎のカーテンを揺らし、月の光が静かに差し込む。「さあリノア、もう寝るよ。今夜はしっかり休もう」 エレナの穏やかな声にリノアは頷いた。 シオンの研究ノートの一部と手紙を手に寝室へ向かう。 それらを鞄にしまい込み、毛布にくるまると、心地よい重みが体を包み込んだ。 旅立ちの緊張感がわずかにほぐれ、ゆっくりと疲れが溶けていく──まるで波が静かに砂をさらうように。 トランの穏やかな寝息が微かに聞こえる。 夜の静けさの中、リノアは目を閉じた。 瞼の奥に浮かぶのは、記憶の声。水鏡の湖──古木の根にあった鉱石──龍の涙、生命の欠片── リノアの思考は過去へと遡っていった。 あの森での出来事が頭をよぎる。 シオンが亡くなった場所の近く、焚き火の跡で突然、風が舞い上がり、灰が舞い上がった。 そこに現れた一つの木箱。 あの風は私の星詠みの力が呼び起こしたものだったのかもしれない。 あのような場所に隠さねばならなかった理由…… おそらくシオンは誰かに追われ、龍の涙を研究所まで運ぶことができなかったの
リノアは手紙を閉じて息を深く吐いた。そこには言葉にできない思いが滲んでいる。 書斎の空気は重く、まるでラヴィナの筆跡が今もこの部屋に息づいているかのようだった。 シオンの探求、森の危機、星詠みの力――手紙に綴られた断片的な情報が未完成の絵のように、リノアとエレナの心に新たな問いを投げかけている。 リノアは視線を落とし、指先で紙の質感をそっとなぞった。「戦乱で消えた者たちが生きている……」 リノアは震えた声で言った。 指先に残る紙の感触が現実のものとは思えないほど重く感じられる。 噂では聞いたことがあった。戦乱のさなかに逃げた戦士たちが、森のどこかの集落でひっそりと暮らしているという話や、街へと連れ去られた者たちが今も影のように生き延びているという話を……「噂の域を出るものではないけど、街に行った人たちから目撃例を何度か聞かされてる。もし、それが事実なら……」 エレナの声が沈黙を破り、書斎の空気をわずかに震わせた。 戦乱の後、多くの者が姿を消した。亡骸の数を照らし合わせれば、単に命を落としたのではなく、何者かによって連れ去られたと考えるほうが自然だ。 戦力を削ぐため――もしそれが真の目的だったのなら、彼らは今もどこかで生きているのかもしれない。 もちろん父と母も……。 誰もが忘れかけていた名が、今、目の前で蘇ろうとしている。その可能性がリノアの鼓動を速めていく。──確かめなければならない。 リノアは再び手紙を開いた。「ヴェールライトの鍵は水鏡の湖。そこへ赴けば、星詠みの力が目覚める。か……」 リノアが自分に言い聞かせるように呟く。 星詠みの力……。それが何を意味するのか、まだよく分からない。だけどシオンが求めたもの、森を脅かす危機、そのすべてが私をそこへ導いている。「鉱石を掘り、森を冒涜というのは、あの人影たちのことでしょうね」 エレナは冷静に一つの事実を確認するように言った。 この危機的な状況下であっても、まだ欲に囚われる者たちがいる……。 彼らにとっての鉱石は、生存のために不可欠なものではない。それは金銭、名誉――欲望を満たすためのものだ。「どうやら動いている者はグレタだけじゃなさそうね。慎重にならないと」 エレナの目が鋭く光った。 レイナのあの冷たい目も気になる。トランも言っていたように、何か裏があるのではな
リノアとエレナは書棚に近づき、並べられた本を見つめた。 そこには、植物の名前、星の軌道、鉱石に関する研究ノートが整然と収められている。 シオンが何を探求し、どんな思索を巡らせていたのか。その痕跡が書斎の中でなお息づいている。 二人はページを捲ることなく、ただ目で追い、その奥に隠された秘密に胸の内で問いを投げかけた。 眺めていると、ふと書棚の奥がわずかに歪んでいることに気づいた。紋章のスケッチの裏側に不自然な隙間がある。 光の加減か、それとも何かが隠されているのか。 リノアは慎重に木の板を外した。 積もった埃がふわりと舞い上がり、空気にほのかな古い紙の香りが混じる。その奥には、丁寧に折り畳まれた手紙が隠されていた。「エレナ、見つけたよ」 リノアの声に、エレナの表情に緊張が走った。 まるで過去がそっと手招きしているかのように、エレナの視線が封に記された「シオンへ」の文字へと吸い寄せられていく。 差出人はラヴィナだった。「ラヴィナ……」 シオンが頼った人だ。 封に記された文字を見つめながら、リノアはゆっくりと息をついた。 シオンにとって、この手紙はどんな意味を持っていたのだろう。「エレナ、開けて良い?」 静寂が満ちた後、エレナはゆっくりと頷いた。 リノアが手紙を開き、紙が擦れる音が響く。 そこに綴られた言葉は、単なる情報ではなく、シオンへ向けられた、切実な願いだった。───────────────────────────────────────シオンへ あなたが話していた鉱石や種子について、少し分かったことがあります。 ヴェールライトの鍵は水鏡の湖。そこへ赴けば、星詠みの力が目覚めるかもしれません。龍の涙──破壊の力を秘めた種子生命の欠片──再生の光を宿す種子 この二つは古木の力と深く結びついており、自然の均衡を保つものです。それらは森の心そのもの。その心を開くには、星詠みの力が必要です。 名家の者たち、グリモナのグレタ、街の者たち、裏で糸を引く者── それぞれの欲望が渦巻き、動き始めています。街の者たちの欲望には十分に注意を払って下さい。彼らは鉱石を掘り、森を冒涜する者たちです。自然の怒りは、森を傷つける者に必ず向けられるでしょう。 戦乱で消えた者たちですが、彼らはまだどこかで生きているはずです。 森と家族
「シオン、私が守るよ。森を、みんなを」 リノアの言葉が夜の空気を揺らした。 星々の輝きがリノアのペンダントに映り込み、その光がリノアの決意を祝福するかのように瞬いている。 リノアの目には、もう迷いはない。 リノアはシオンの笛を衣の内側に仕舞い込んで、胸に響く音色の温もりを噛みしめた。 月光が水鏡のように揺れている。「リノア、いい音色ね」 紡ぎ出された穏やかな声にリノアは振り向いた。エレナが弓の手入れを終え、こちらを眺めている。 「シオンがラヴィナっていう人と連絡を取り合っていたなら、どこかに手紙があるんじゃないかな」 エレナの言葉に、リノアの胸がわずかに高鳴った。──兄のシオンがまだ語っていない秘密が、きっとそこに隠されている。 卓上ランプの淡い光が書棚や机を照らしている。光が揺らめくたびに、そこに刻まれたシオンの思索の痕跡が浮かび上がった。 壁には植物の精密なスケッチ、星の軌道図、そしてノクティス家の星の紋章が貼られている。それらは、シオンの尽きることのなかった好奇心の断片だ。「どうやら、ここにはラヴィナの手紙はないようね」 エレナはそう言って、視線を部屋の奥へ移した。微かな沈黙の後、エレナは慎重に言葉を選びながら呟いた。「たぶん、奥の部屋の棚だと思う」 エレナはシオンの恋人だった人だ。研究所には何度も足を運んでおり、シオンの癖や考え方を知っている。 リノアとエレナは部屋の奥へと進んでいった。 ランプの光がエレナの背中を淡く照らし、その動きに合わせて影が流れていく。「シオンは植物を研究する部屋、工作に励む部屋など、用途ごとに空間を分けていたの。大事なものは奥に保管してあるはずよ」 エレナの声には思い出を辿るような懐かしさが込められている。 リノアとエレナは、研究資料や道具が並ぶ廊下を抜けて、奥の部屋へと近づいた。静寂の中、微かに紙の擦れる音と二人の息遣いが響く。「私もこの部屋にはあまり来たことがないんだけど……。もしあるとしたら、この部屋じゃないかな」 リノアにとって、研究所はただ訪れる場所に過ぎなかった。兄妹とはいえ、シオンの研究には深入りすることはなく、入り口近くの部屋で過ごすことが殆どだった。 エレナも私と同じだったのか。それだけシオンの研究に対して尊敬の念があったということだろう。
あの幼かった日のことが想い出される。 あの日、リノアは広場の端に一人で佇み、父や母と楽しんでいる友人たちを眺めていた。 子どもたちは駆け回り、大人たちは屋台で買った食べ物を手に笑い合う。誰もが笑顔で楽しそうに言葉を交わしていた。 しかし、そんな賑やかな光景を目の前にしながらも、リノアの心はどこか遠く離れていた。 俯いたままのリノアを気に留める人はいない。リノアには村人たちの笑い声が遠い世界の出来事のように感じられた。 ひと息ついて、リノアは広場をそっと見渡した。けれど、笑い合う人々の中でリノアの視線に気づいてくれる者は誰もいない。 リノアは広場の賑わいから目を背け、再び地面に視線を落とした。足元の小石をつま先で転がし、手をぎゅっと握りしめる。 どうして私だけ…… 佇んでいた時、どこからともなく足音が聞こえた。誰かが駆け寄って来る。「リノア、これあげる」 見上げると、そこには兄のシオンが立っていた。手には笛が握られている。 戸惑いながら笛を受け取ると、シオンはそのまま何も言わずに、広場の向こうへ立ち去った。 私はただ、その背中を呆然と見つめた。 シオンに手渡されたのは、緻密な彫刻が施されたヴィーンウッドで作られた笛だった。その木目は滑らかで美しく、手の中に優しい感触を残した。 ◇ 夜風が頬を撫で、現実へと引き戻されたリノアはシオンに貰った笛を眺めた。木の温もりが肌から胸の奥にじんわりと伝わってくる。この感覚は、あの日、初めて笛に触れた時と同じものだ。 ほんの少し前まで父と母と手を繋ぎ、皆と同じように満面の笑みで広場の中心ではしゃぎ回っていた。その幸せは永遠に続くものだと信じていたのに…… 突然すぎる別れが、その幸せを容赦なく奪い去っていった。 心にぽっかりと空いた穴は埋める術もなく、ただひっそりとそこに居座り続けているばかり。 シオンは、そんな私を元気づける為に母から受け継いだ大切な笛を譲ってくれたのだ。 あの頃のシオンは多くを語らず、不器用で自分の優しさを言葉にすることが苦手な人だった。でも、その無骨な優しさこそが、私には何よりも愛おしく感じられる。 私の心はあの日、壊れてしまった。それを誰かに話すことも、共有することもできず、ただ日々の中で飲み込んで
森は呼吸しているかのように穏やかな気配を放っている。もう今日は誰も襲っては来ないだろう。 リノアは疲れ果てたトランが眠りにつく様子を見つめた。無邪気な寝顔をしている。日に焼けた頬とほんのりと紅潮した鼻が愛らしさを引き立てている。 トランは今日、クラウディアから託された手紙をしっかりと抱え、森の中を一人で歩いて来た。夕方以降という危険な時間帯にもかかわらず、怯むことはなかった。トランは役目を果たそうと必死だったのだ。 トランが必死に任務を遂行する姿を想像すると、胸に込み上げてくるものがある。きっとトランに無理をさせている。 クラウディアさんがトランに手紙を託したのは、彼に困難を経験させ、成長の機会を与えたいという願いが込められていたからに違いない。 それだけ村の置かれている状況が深刻なのだろう。だからこそ、クラウディアさんはトランにあえてこの役目を任せ、未来に繋がる力を育てようとしたのだ。「乗り越えなければならない壁……か……」 リノアは自分に言い聞かせるように呟き、もう一度トランの寝顔を見つめた。 きっとトランは、この経験を通じて、より逞しく成長する。 リノアはトランの髪を軽く整えると、そっとその場を離れて机に向かった。 星見の丘での出来事をクラウディアさんに伝えなければならない。 研究所内はインクや薬草、埃の香りで満たされている。落ち着きのある空間だ。 リノアは書きかけの手紙に目を落として、再び手を動かした。 この辺りの村民ではない、見知らぬ人たちが古木の根元で鉱石を掘っていたこと。その人物が「生命の欠片ではない」と口にして悔しがっていたこと。掘り出した光る水晶のような鉱石を使った際、周囲の草花が枯れたことやシカが荒れ狂った様子。そして、シオンと繋がりがありそうなラヴィナに会いに行くこと。 これらの事実をリノアは淡々とした筆致で書き留めていった。 ふと目を上げると、机の上にシオンの持ち物が散乱していることに気づいた。ガラスの瓶や星の紋章が刻まれた道具箱、そして獣を撃退した際に触れたペンダントと同じ種類の鉱石……。──この鉱石はペンダントと同じ効果を発揮することはなかった。おそらく加工されたペンダントには何らかの特殊な技術が使われている……。シオンの研究の結晶なのかもしれない。 ペンダントが光を放った際に現れたビジョンの記憶がリノ
「だけど、どうして私の能力や龍の涙のことを知っているんだろう」 そう言って、リノアは深く息を吸い込んで、そして続けた。「シオンが亡くなったことまで知ってるなんて……。グリモナの村と交流はあるけど、そこまで密接な関係でもないのに……。何か目的があって、私たちに近づいてきたとしか思えない」「確かにね」 エレナはリノアの言葉に同調し、真剣な表情で話し始めた。「グレタの態度には何か違和感があった。穏やかに話していたけど、視線が鋭くて、私たちの話を探っているような感じだった」「随分と森のことを心配している様子を見せていたのに、その言葉の裏に別の意図があったってことか……」 リノアは表情を曇らせながら言った。「まだ分からないけど、その可能性もあると思う。私たちがどこまでのことを知っているのかを探っていたとかね」 エレナは冷静さを保ちながら慎重に言葉を紡ぎ、少し間を置いて、さらに続けた。「いずれにしても目的が分かるまでは注意しないとね。クラウディアさんが言うには、他の名家たちも龍の涙を狙っているってことだし」 エレナとリノアの間に漂う空気が、一層引き締まった。「そうだね……」 リノアは息を整えながら、視線を手紙に戻した。 グレタの動向は気にしなければならない。だけど、レイナの様子も気になる。 レイナの森の奥に意識を向ける態度は一見、無関心に見えた。だけど、あの人は何かを隠している。 もっと深い何か別の計画があってもおかしくはない……。「何だか大人って汚いよね。裏表があってさ。やな感じ」 トランが少し不機嫌そうにぼそりと呟いた。 トランは少し口を閉ざした後、視線をリノアたちに向けた。その目には、何かを確かめたいという切実な思いが宿っている。「ねえ、リノアたち、ラヴィナのところに行っちゃうの?」「うん。私が村に留まれば村に争いを呼び込むことになるしね」 リノアが言った。「そんなことないよ。戻って来てよ」 トランが不安そうに言うと、リノアはトランの方を向いて微笑んだ。「行かなければならないし、クラウディアさんも旅立って欲しいと思ってるから……」 そう言って、リノアは視線を遠くに向けた。「そうかもしれないけど、きっとクラウディア様はリノアを逃がそうとしているのだと思うよ。村に居たら危ないから。何か、そんな気がするんだ」 トランの表